2011-01-26

Torfi H. Tulinius - Samband við framliðna á miðöldum

明日のアイスランド語の授業の課題が、午後10時を過ぎてもアップロードされない。
予習無しで政治やニュースについてアイスランド語で話すのは無理なんですけど。

それはそれとして、今日はトルヴィの授業があった。
題して「Living with the Dead」(シラバス

異教時代からキリスト教時代にかけて、アイスランド人、スカンディナヴィア人の死者への態度、埋葬方法や死後の世界観から動き回る死者とのつきあい方まで扱われるようだ。
とくに死者の登場が多い「エイルビュッギャ・サガ」 が毎回採り上げられている。

ただ…本日3回の授業を終えたところだが、率直に言うとあまり面白くない。
講義を取っている生徒数は多い方だし(20余名)、発言も少ないわけではないのだが、いかんせん議論が盛り上がらない。
今日のテーマは「シャーマニズム」だったが、シャーマニズムとトランス・ジェンダー関連で修論を書き上げたばかりのクラスメイトは、議論での皆のコメントについて「表面的なことにしか注目してない」と不満そうだった。
まぁ、そう言うのならば自分でコメントすべきなのだが。

しかし、議論が盛り上がらないのは、生徒のレベルが低いというよりも、講師の方があまり突っ込んだ話が出来ていないからだと思われる。有り体に言えば、「山」がない。
おそらく、古北欧文学中の「死」というテーマは、目下検討中の対象なのだろう。
2009年のサガ学会では、ニャールのサガの中の死生観とフロイトについて発表しているし。
» Torfi H. Tulinius, “Ærið gott gömlum og feigum.” Seeking death in Njáls saga (The 14th International Saga Conference, Uppsala, Sweden 9th-15th August 2009)

エギルのサガとスノッリ・ストゥルルソンの家族関係や、伝説的サガを扱った去年度の講義に比べると、明らかに分析の深度が落ちる。
やはり、すでに一冊の書物に纏めた段階のテーマについて話すのとは勝手が違うのだろう。
» Torfi H. Tulinius. 2004. Skáldið í skriftinni : Snorri Sturluson og Egils saga.
» Torfi H. Tulinius. 2002. The Matter of the North: The Rise of Literary Fiction in Thirteenth-Century Iceland (The Viking Collection 12).

自分で授業をしたこともない人間が、既に大成した教授の授業に文句を付けるだけではおこがましいので、なぜ面白く感じられないのかを考えてみようと思う。

今日の授業では、エイルビュッギャ・サガに登場する非常にアクティヴな死者、びっこのソーロールヴの描写が採り上げられた。
ソーロールヴをめぐっては、確かに興味深い要素がたくさん出てくる。
目を見開いたまま亡くなったソーロールヴの遺体の取り扱いとか、鷲や牛といった動物との関係とか。
ソーロールヴは死後も動き回って災いばかり引き起こすので、ついには遺体を掘り起こして火葬される。
それでソーロールヴ自身の徘徊は収まるものの、火葬後の灰を舐めた雌牛が異様に美しい仔牛を産み、その仔牛が成長した後に火葬を指揮した農民を殺害する…というくだりなんかは、ふつうにサガを読んでいても刺激的なエピソードだ。

ただ、なぜそれが学問的に面白いのか、という点の説明が乏しかった。
授業では、サガ中で直接は語られないものの、ソーロールヴの霊が動物の姿を取っているようにも解釈できることを、ヒストリア・ノルベジエのサーミ人の「ガンド」(シャーマニズム的儀式で使役される霊)の例と繋げていた。
でも、ヒストリア・ノルベジエでは、一方の術者のガンドは鯨の姿を取っているが、敵対者のガンドは杭になってその鯨を刺し殺している。
鯨はたしかに動物だが、杭は?
そもそも、死者自身が動き回るソーロールヴの話は、シャーマニズムの範疇に入るのだろうか?

どうも、表面的な類似点だけを拾い上げている印象が残ってしまった。
学問が面白いのは、一見何でもない現象が見方を変えると深い意味を持っていることに気づかされるからだと思う。
そういう新鮮な驚きを求めて来るのが大学の授業だと思う。
シャーマニズムや悪霊の話は、それだけで確かにエンターテイメント性はあるのだけれど、学問的にはどういう文脈において面白いのだろう?
そのあたりの文脈が足りない。

授業だけではなくて、学会発表などにも通じることだが、いくらこの事例は面白いですよ、と言われても、「なぜそれが面白いのか」というコンテクストを欠いた話は、聞いていてあまり面白くない。
もちろん、聞く方の知識や理解度が足りなくてコンテクストをつかめない、という場合も多々ある。
だが、MISの授業のような、聴衆のバックグラウンドに幅があることが前提の場では、とくにどんな研究史をたどってきて今そのテーマが興味深いのか、ということを説明して欲しいと思ってしまう。

……と個人的には思うのだが、それはもしかしたら歴史畑で育ってきた自分の偏見かもしれない。
上述のようなコンテクストを毎回押さえていた、先期のオッリ・ヴェーステインソンによる「ヴァイキング考古学」の授業は、自分としてはものすごく面白かったのだが、言語学の友達は研究史の話ばかりで全然面白くないと言っていた。
価値観の違いというのは奥が深い。

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